40 歳のくすぶった衝動
歴史的価値の高い映像と、関与した人物が振り返る当時の様子を踏まえ、現代の研究者・小説家の観点から三島由紀夫とは改めてどんな人間だったのかを浮かび上がらせ、そして討論会の現場であった900番教室の熱量や融合がリアルに伝わってくる作品だった。
三島の真摯な態度とユーモアセンスで始まった討論会では右と左という単純な対立構造はなく、言葉によるぶつかり合いと熱量が迸り、双方が抱えるひたむきな人間の探究心のようなものが湧いているように感じた。
学生運動やヒッピームーブメント、ロック的初期衝動のような熱量を持った運動になぜか定期的に興味関心を抱いて突き動かされることがある。思想に対して自身の忠誠を誓うような行動でもって問題を提起することをリアルタイムに経験したわけでもないので、単純に羨望と憧れが強いんだろう。
今年 40 歳、現場でエンジニアをやってる。もちろんチームメンバーは全員自分より若い。マネジメントにはいかないと決め込んでいるし、なんなら上長だって自分より若いことだってある。生涯現役でいられるのだとしたら、同僚として若い人と仕事をし続けるものだと思ってる。
最近、採用の場面で一緒に同席した方が、自分のことを全く予想していないベクトルから評価してくれていることを知り、それを機に改めて年配者であることを意識し始めた。
言葉による旧体制の転覆だとか、アジテーションによって着火する民衆心理の暴発だとか、権力構造が変わっていくパラダイムシフトだとか、そういう変化や革命に対する希望的欲求が自身には大変大きいのだと感じる。
多少演劇を齧って役者をやってたもんだから、余計くすぶった衝動みたいなもんをずっと腹に抱えているんだろう。とはいえ自分で何かを起こすわけでもなく、人間的にも歪曲した部分が多いのでひねた感情でただ何かを待っているような質なので、くすぶった衝動は毒素のような形で言葉に出ることもなくはない。
一方で毒とは真逆の、熱量の高い言葉の強さというものも信じている。時折若い人へ熱量の高いメッセージングをしなくもない。意図せずそうしてしまうこともあれば意図してそうしていることもある。
言葉によってしかシステムは変わらない
作中に出てくる言葉だ。卑猥な根回しや制圧的な暴力や弾圧でもってもシステムは変わらない。安寧して慣習的な防御行動により熟練した無能を発揮することもまたシステムを愚鈍にする原因のひとつ。討論会では間違いなく言葉が生き生きとぶつかり合い熱をもっていた。何かが変わろうとする瞬間に言葉がないわけはないだろう。
「この言霊がどっかにどんな風に残るか知りませんが、その言葉を、言霊を、とにかくここに残して私は去っていきます。これは問題提起に過ぎない。」
三島はこう言って討論会を後にする。比較するのもおこがましいが(本当におこがましい)、熱量の高い言葉を静かに空気に置きながら周囲の様子をうかがい、反応を見てみるという点で、わたしも言霊を信じるしそれ以上の解決を瞬間では望んではいない。ただただくすぶってる衝動を喉につっかえらせてる。
三島の作品を熱っぽく語れるほどファンではないんだけど、多感な時期に読んで影響の受けた 三島のエッセイだ。
「三島由紀夫 vs 東大全共闘」を見るまで人物をぼんやりとしか捉えていなかったが、討論会における佇まいや伝聞によって見えてくる三島という人間が備えたユーモアや若者に対する熱意がこのエッセイにも滲んでいるなと読んでいた若い頃を思い出した。